見晴広場から見える好文亭はとても美しい。
日本三名園である偕楽園の象徴ともなる建物なので好文亭を背景に記念撮影する人も多く、この日は結婚式の写真撮影が行われていました。
好文亭のそばまで行くと、その脇に大きな石の碑が立てられていました。
偕楽園記碑
偕楽園の名前の由来や創設した理由、利用の心得などが、斉昭の直筆で記されています。
碑には、斉昭の宇宙観や人生観、藩主としての姿勢、偕楽園が弘道館と一対の施設として構想されていたことが記されています。
また、この公園は自分ひとりのものではなく、領内の人々が学問や武芸を学んだあとで余暇を利用して休息し、心身を養うところであることを明らかにしています。
偕楽園の名前は、「多くの人々と楽しみをともにしたい」との思いから名付けられました。
碑の裏には斉昭の定めた園内の禁止条項(六条)が刻まれていますが、その内容は今日の公園管理の先駆をなすものといえます。(案内板より)
芝前門をくぐり好文亭の入口へ。ここは200円の観覧料が必要です。
好文亭
好文亭は、水戸藩第九代藩主徳川斉昭(烈公)が詩歌・管弦の催しなどをして家中の人々とともに心身の休養をはかるために天保13年(1842年)に建てたものです。
好文というのは梅の異名で、「学問に親しめば梅が開き、学問を廃すれば梅の花が開かなかった」という中国の故事にもとづいて名付けられました。
建物は木造二層三階建ての好文亭本体と北につながる奥御殿(平屋造り)からなり、全体を総称して好文亭と呼んでいます。斉昭はその位置から建築意匠まで自ら定めたといわれています。
奥御殿を設けた理由は、万一城中に出火などあった場合の立ち退き場所として備えられたためと、当時藩内では管弦など禁制であったので城中の婦人達のため遊息としたという配慮があったようです。
昭和20年(1945年)8月2日未明の空襲で全焼しましたが、昭和30年(1955年)から3年をかけて復元されました。昭和44年(1969年)9月落雷により奥御殿と橋廊下は焼失しましたが、昭和47年(1972年)2月に復元されました。
平成23年(2011年)3月1日の東日本大震災では壁の崩落など大きな被害を受け閉館を余儀なくされましたが、平成24年(2012年)2月に復旧しました。(案内板より)
庭に入ると木立の向こうに落ち着いた日本家屋が現れました。
玄関で靴を脱ぎお屋敷に上がります。
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