旅行期間:2015年7月
3日目
ランチで一息ついたあとは、さきほどのシルクロードを通ってトクマクへ向かいます。
三蔵法師で有名な玄奘三蔵と所縁のある場所ということで説明がありました。
=====ガイド=====
三蔵法師と呼ばれているが、一人しかいないわけではなくたくさんいた。三蔵法師というのはもともとの意味はお釈迦様の教えの「経」、「律」、その両方を研究した「論」の三つを極めた人のことを三蔵といった。しかし、一番有名な人が玄奘三蔵だったので三蔵法師と言えば玄奘三蔵となっている。
玄奘三蔵は602年くらいに今の河南省で生まれた。10歳の時に父親が亡くなり、その翌年、上から二番目の兄が洛陽のお寺に出家するということでそこに行った。13歳のときに、優秀な人しか選ばれない僧となり、25~26才ころまで仏法や高僧の教えを求めて中国各地を巡っていた。
618年18歳の時に、兄と一緒に長安に移るが随の末期だったので戦争などがあり、とても勉強をする環境ではなかった。そのため翌年、成都に移った。
各地を周り話を聞いているうちに、いろいろ疑問を抱いて、どうしようかと思った際、仏教の大元の天竺(今のインド)へ行って経典の原典を見れば疑問も晴れると思い行くことにした。
ただ当時、唐は鎖国状態で国外に出ることは禁止されていたため、627年か629年と言われているが、国禁を犯しなんとか国外に出た(状況からみると627年の方が正しいとされる)。
長安を出た玄奘三蔵は、まず蘭州の方へ行きその後武威で1ヶ月ほど滞在して仏教の講義を行った。そしてハミなどに行き、本来は天山山脈の北から周ってトクマクへ向かう予定だったが、高昌国(今のトルファン)の王様に立ち寄るように言われ予定を変更しそちらを訪れた。王様は玄奘三蔵をとても気に入り、なんとか残ってくれないかとお願いしたが、玄奘三蔵は天竺へ行くのが目的だったので、帰りに寄ると約束し出発した。
このとき、玄奘三蔵は王様から、この辺りを支配している国の王様に宛てた紹介状をもらっている。
その後、天山山脈のベデル峠(標高4284m)を気候のいい時を選んで通ったが、高い高度だったので大変だった。当時の記録では、一行は7日間の山旅のあとようやく山道を出ることができたが、一行のうち闘病死した人が10人のうち3~4人もあり、牛馬はそれ以上倒れたとあり、かなり過酷な道のりだったのがわかる。
そして、今のトクマクの砕葉城(スイアーブ)にたどり着いた。ここで西突厥の王様に会い、その後訪れる国の紹介状や通訳などを整えてもらった。これがとても大事なことで、当時はいろいろな国が入り乱れていたので、この紹介状などがあることにより安全な旅を行うことができた。
なんとか天竺にたどり着き、645年に仏舎利や仏像、多くの経典をもらって長安に戻ってきた。
国禁を破って出国した玄奘三蔵だったが、その評判を聞いた唐の太宗皇帝は、国境近くまで使者を送り大歓迎で迎えた。
さらに玄奘三蔵は皇帝から気に入られ、祭りごとにも参加するように言われたが、本来の仕事である仏典の翻訳をさせてほしいと頼み、死ぬ間際までそれに専念した。
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玄奘三蔵の話は他の地域に旅行に行った時も何度も出来てきましたが、その度にここを歩いて通って行ったのかと驚かされます。
今回の説明に出てきた新彊ウイグル自治区のトルファンにも行きましたが、とても暑くて荒涼とした地域で、車で移動しながらの旅行でも結構体力が奪われる場所でした。
本当に過酷な旅だったと思います。
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