2014年10月7日火曜日

奥塩原元湯温泉と塩原自然研究路トレッキング記#11-新湯の「狢の湯(金泉湯)」に入浴

旅行期間:2014年9月下旬

2日目

新湯温泉神社を後にし、町を散策しながら共同浴場の「狢の湯(金泉湯)」に向かいます。

途中、ここの源泉を祀った「源泉七福神」というのを発見。
そのすぐ奥には、「新湯爆裂噴火跡」があり、山の中腹には石碑が建っていました。











狢(むじな)の湯は、宿泊している元泉館の仲居さんが、「新湯に行くなら狢の湯に入ってみるといいですよ」と勧めてくれた温泉。
浴場は、細い階段を下ったところにありました。一人300円を箱に入れて入ります。

狢の湯(金泉の湯)の由来
安永二年(1855)五月十五日、今市地方に農業の開発指導に来ていた二宮金次郎が、庄屋の亀屋平兵衛宅に五月十六日から六月三日まで中十二日間滞在して、この狢の湯(金泉湯)に入り病気療養をして今市に帰り仕事に復帰されました。
新湯温泉の始まりは、白河天皇が堀川天皇に皇位を譲り法皇時代の康和二年(1100)の頃と思われます。昔この辺一帯は居村と云われ、八郎ヶ原に居館を持っていた塩原八郎家忠も狢の湯に入り、元湯温泉を拠点として付近一帯を支配していました。
その後、中世・近世と宇都宮城主に守護され、【元湯千軒】といわれた元湯温泉が、突然、万治二年(1659)の会津田島大震災で裏山が地滑りを起こし源泉の湯口が塞がり、湯治場が一瞬の内に機能を失ってしまいました。その後、居残りの人々で再興を果たしたが、二十四年後の天和三年(1683)九月朔日の日光大地震が発生、元湯温泉湯治場は、壊滅状態になり復興を断念する事になりました。
最後まで復興に努力をした住民の忠左衛門・平左衛門・平右衛門・源左衛門・伊左衛門・市左衛門・新左衛門・勘左衛門・長左衛門たち九軒は、しかたなく再復興をあきらめ、元湯温泉湯治場の面影を少しでも残したい決意をもって、新湯温泉に移住を決めました。
その後、宇都宮藩主の庇護により充実した湯治場として保護され、宇都宮城下の大曽から福渡温泉までの大曽條(湯の道)を造り往来し、幾度となく殿様をはじめ、家臣や藩内の庄屋などが、巻狩りに訪れ、この狢の湯に入り体を癒しました。(案内板より)

 

 


中は男女別で、小さいながらもちゃんとした脱衣所も完備。
湯船は3~4人用くらいの大きさで、お湯は白濁、そしてものすごく熱い。教えてくれた仲居さんも「熱いけど」と言っていましたが、本当に熱い。下町のおじいちゃん向けの温度です。

とてもそのままでは入れなかったので、湯船の脇に取り付けてあるホースで冷たい水を給水。
源泉を薄めるなんて邪道だと言われそうですが、入れないものは入れない。

入れ違いで出て行った女子も「水、入れまくりました」と言っていました。
思えば、すぐそこで煙が立つ源泉が沸いていて、そこからここまでの短い距離では冷めるヒマもないのでしょう。




新鮮出来立ての温泉は、まったくパンチのあるお湯でした。
この周辺では有名なお湯らしいので、近くに行った際はぜひ立ち寄ってみてください。


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