三芳野神社の次は喜多院へ行ってみることにしました。
道の要所要所に案内板があるので、住宅街の入り組んだ道でも迷わず着くことができます。
川越観光とはまったく関係ないですが、途中で、全車のナンバーが3の数字だけの幼稚園のバスを発見しました。
なんだかいいものを見た感じ。
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三芳野神社からはゆっくり歩いて15分ほどで到着。
川崎大師 喜多院(重要文化財)
伝説によるとその昔仙波辺の漫々たる海水を仙芳仙人の法力により取り除き尊像を安置したというが、平安時代、天長7年(830)淳和天皇の勅により慈覚大師が創建された勅願寺で本尊阿弥陀如来を祀り無量寿寺と名付けた。その後鎌倉時代、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(厄除元三大師)を勧請して官田五十石を寄せられ関東天台の中心となった。
正安3年(1301)御伏見天皇は星野山(現在の山号)の勅額を下した。更に室町時代、天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上した。江戸時代、慶長4年(1599)天海僧正(慈恵大師)が第27世の法統をつぐが、同16年(1611)11月徳川家康公が川越を訪れたとき寺領4万8千坪及び五百石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、四代家綱のとき東照宮に二百石を下すなど大いに寺勢をふるった。
寛永15年(1638)一月の川越大火で現存の山門を除き堂宇はすべて焼失した。そこで三代将軍家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して客殿、書院等に当てた。家光誕生の間、春日局(家光公の乳母)の間があるのはそのためである。その他慈恵堂(本堂)、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの建物を数年の間に再建し、それらが今日文化財として大切に保存されているのである。
江戸時代までは寺領四万八千坪、七百五十石の幕府の御朱印地として寺勢をふるったが、明治以降財力の欠如とその広さ、大きさのため荒廃に向かった。戦後文化財の指定とともに昭和大復興にとりかかり関係者の並々ならぬ努力によってその主な建造物の復元修理が完成し、それっら偉観は、盛時を偲ばせるまでになった。しかし未だ完成しないところもかずあり今日までその整備事業は継続して行われている。
現在の境内地は東照宮を含めて一万四千坪あり、今日その緑は市民にとって貴重な憩いの場となっており池や堀をめぐらした景勝はそこに点在する文化財群とともに川越随一の名勝地霊場地として名高く厄除元三大師のお参りとともに四季を通じて史跡を訪れる人々がいつも絶えない。
一月三日の厄除初大師のご縁日には家内安全、厄除等の護摩祈願、また境内には、名物だるま市が軒をつらねて立ち並び、又二月三日の節分会、四月の長日護摩講の行事をはじめ毎日護摩供を奉じて所願成就の祈願を厳修している。
文化財の拝観ができ、最近では毎年五月の連休の一週間宝物特別展も開かれている。(案内板より)
まずは立派な山門が出迎えてくれました。
山門 番所(重要文化財)
山門は四脚門、切妻造りで本瓦葺もとは後奈良天皇の「星野山」の勅額が掲げられていた。冠木の上の斗供に表には竜と虎、裏に唐獅子の彫ものがあるほか装飾らしい装飾もないが、全体の手法が手堅い重厚さをもっている。棟札も残っており、天海僧正が寛永9年(1632)に建立したもので同15年の大火を免れた喜多院では最古の建造物である。
山門の右側に接続して建っているのが番所で間口十尺(3.03m)、奥行二間半(4.55m)、紀屋根、瓦葺の小建築で徳川中期以降の手法によるもので、県内に残るただ一棟の遺構である。(案内板より)
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境内はとても広く、観光客の他、地元の人たちも屋台エリアでくつろいだりしています。
奥に進んでいくと、右側に美しい塔が建っていました。
多宝塔
「星野山御建立記」によると、寛永十五年九月に着手して翌十六年(1639)に完成、番匠は平之内大隅守、大工棟梁は喜兵衛長左衛門だったことがわかる。この多宝塔はもと白山神社と日枝神社の間にあった。明治四十五年道路新設のため移築(慈恵堂脇)されたが、昭和四十七年より復元のため解体が行われて昭和五十年現在地に完成した。多宝塔は本瓦葺の三間多宝塔で下層は方形、上層は円形でその上に宝形造の屋根を置き、屋根の上に相輪をのせている。下層は廻縁を回らし、軒組物は出組を用いて四方に屋根を葺き、その上に漆喰塗の亀腹がある。この亀腹によって上層と下層の外観が無理なく統合されている。円形の上層に宝形造の屋根をのせているので組物は四手先を用いた複雑な架構となっているが、これも見事に調和している。相輪は塔の頂上の飾りで九輪の上には四葉、六葉、八葉、火焔付宝珠がのっている。この多宝塔は慶長年間の木割本「匠明」の著者が建てた貴重なる遺構で名塔に属している。(案内板より)
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そして喜多院の本殿、慈恵堂でお参りし蝋燭を立ててきました。
今年も良い年でありますように(もう4月だけど)。
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慈恵堂の脇の小山へ登ると慈眼堂があります。
慈眼堂(重要文化財)
十月二日寛永寺において入寂し、慈眼大師の諡号をおくられた。そして三年後の正保二年(1645)には徳川家光の命によって御影堂が建てられ、厨子に入った天海僧正の木像が安置されたのが、この慈眼堂である。一名開山堂ともよび、桁行三間(5.45m)、梁間三間で、背面一間通庇付の単層宝形造、本瓦葺となっている。宝形造は、四方の隅棟が一ヵ所に集まっている屋根のことで、隅棟の会するところに露盤があり、その上に宝珠が飾られている。(案内板より)
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小山をいったん下りて、葵庭園を通り過ぎると再び丘があり、その上にいくと東照宮です。
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奥には行けないので、フェンス越しに覗くしかないのが残念。
三つ葉葵の御紋があちらこちらで威厳を放っていました。
東照宮拝殿・幣殿(重要文化財)
拝殿は桁行三間(5.36m)、梁間(3.64m)で、単層入母屋造、正面は向拝一間(1.82m)あって銅板本葺である。幣殿は桁行二間、梁間一間で背面は入母屋造り、前面は拝殿に接続し、同じく銅板本葺である。内部も朱塗で美しく、正面に後水尾天皇の御染筆なる東照大権現の勅額が懸けてある。記録によると寛永十年(1633)十二月二十四日とあって、東照宮創建当時に下賜された貴重なものとされている。川越城主であった柳沢吉保や秋元但馬守喬朝の頃に大修復があったと伝えているが、松平大和守の弘化四年(1847)にも修復が行われたという。(案内板より)
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石段を下りて入ってきた山門の方へ行くと重厚な鐘楼門がありました。
鐘の窓の両脇に施された彫刻が素晴らしい。
鐘楼門 附銅鐘(重要文化財)
江戸時代の喜多院の寺域は現在よりも相当広く、当時鐘楼門は、喜多院境内のほぼ中央にあり、慈眼堂へ向かう参道の門と位置づけられます。また、上層にある銅鐘を撞いて時を報せ、僧達の日々の行動を導いたと考えられます。
鐘楼門は、桁行三間、梁行二間の入母屋造、本瓦葺で袴腰が付きます。下層は角柱で正面中央間に両開扉を設け、他の壁面は堅板張の目板打です。上層は四周に縁・高欄をまわし、角柱を内法長押、頭貫(木鼻付)、台輪でかため、組物に出三斗と平三斗を組みます。中備はありません。正面中央間を花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げの雲竜の彫刻をかざり、背面も中央間を花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げの花鳥の彫刻を飾ります。上層には、元禄十五年(1702)の刻銘がある椎名伊予藤原重休作の銅鐘を吊っています。寛永十五年(1638)の大火に焼け残ったともいわれますが、細部意匠などから判断して銅鐘銘にある元禄十五年頃の造営と考えるのが妥当だと考えられます。(案内板より)
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他にも有料で拝観できる場所もあるのですが、今回は時間も遅くなってきたのでスルー。
また機会があれば見学してみたいと思います。
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