2018年7月23日月曜日

オマーン旅行記#17-芸術的な建築がすごいジャブリン城(その1)

旅行時期:2018年2月

3日目

バハラの見所のひとつジャブリン城の見学です。

=====ガイド=====
ジャブリン城は17世紀に宮殿として建てられた。宮殿内には25の部屋があり古い調度品が置かれていたりするが、中でも「太陽と月の部屋」の天井の装飾がとても美しい。
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昼過ぎは外の日差しと暑さが強くなるので、主に屋内の観光になるジャブリン城をこの時間に回したのだそう。こういうプロっぽい気遣いがありがたい。







中に入ると受付で、なんと日本語対応のガイディングレシーバーを借りることができました。
そのためここでの見学はそれを持って各自好きなように周ります。




各ポイントには番号がついているので、その順番通りに進めばいいのですが、途中で次の番号が見つからなかったり、全部聞いている時間もないので、飛ばし飛ばし見ていきます。

=====ガイド=====
ジャブリン城は平和な時代には、イマームの住居として使われていた。城内の建造物は何回かにわけて増築されていった。当初この城には複数階建ての小さな要塞があるのみだったが、その後、主な部屋が増築されていった。その結果、城は大きく二塔に分かれていて、それぞれ別の中庭を有する形をしている。それぞれの中庭には井戸があり、毒の流入を恐れることなく、飲料水、料理用水を充分に自給することができた。
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=====ガイド=====
イマーム・ビル・アラブの統治時代は啓蒙の時代と言われ、学問が盛んに奨励された。イマームは城の隣に、イスラム法、アラビア語、歴史、医学、天文学をはじめとする様々な学問を行う学校を設けた。教師には給与が支払われ、生徒には生活費が支給された。こうして、この学校から数々の有名な学者や思想家が排出された。このふたつの部屋はイマームの書斎であり、また、彼の援助のもとで学んだ学生たちの学習の場でもあった。
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=====ガイド=====
イマームはこの美しいふたつの部屋で一般大衆の謁見に応じたり、毎日の執務を行っていた。
ジャブリーンはイマームが亡くなる1692年までオマーンの首都だった。彼の死後、都はハジャール山海岸側のアルハズムに遷都されるが、1721年から1728年の間首都は再びジャブリーンに戻された。
二つの部屋の天井を飾る入念な装飾は、ジャブリン城の最も重要な特徴のひとつで、イマームが大衆の謁見をいかに重んじていたかをよく表している。城内には、フラット型、アーチ型、かまぼこ型の三タイプの天井がある。最も多いのが、フラット型の木の天井で、装飾の程度はその部屋の用途、目的によって大きく異なっていた。
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=====ガイド=====
この要塞型の部屋は、不穏な動きのある間イマームが戦闘指揮をとる場として使われていた。南塔三階の砲撃台の真下に位置するこの部屋は、敵の砲撃や銃撃に耐えられるように特別に建築され、厚い曲線の壁に覆われている。内部に深く入り組んだ窓は地上の様子を監視したり、発砲するのに都合がよかった。また、放火対策として、この部屋には木材が一切使用されていない。
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=====ガイド=====
ここは、イマーム専用の沐浴場。水は配下の中庭から革製のバケツで汲み上げられていた。
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=====ガイド=====
この階段はイマームの寝室に通じている。4段目の横木はわざとゆるく作られており、踏むと音がするように工夫されている。これはイマームに客の訪問を報せるため。この横木はまた、侵入者が上れないように夜になるとはずされた。
階段上部にあるアラビア文字の書は、イスラム教徒が就寝前に唱えた。アーチ型天井と階段の上の壁棚には神の唱えが刻まれている。
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古き良きオマーンを巡る!ニズワとミスファット・アル・アブリーン村観光


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