2013年10月31日木曜日

トルコ旅行記#11-トルコ建国の父アタテュルクとは

旅行期間:2013年9月29日~10月8日

3日目

トルコは広いので移動が長い。
特にイスタンブールから先は長くなるので、その移動時間を利用していろいろなガイドをしてくれます。
私にとってはその国の基本情報から雑学、時にはガイドブックに載っていないようなことまで知ることができるので楽しみな時間でもあります。

=====ガイド=====
トルコの総面積は日本の2.5倍。
でも人口は日本の半分で7300万人。
人口の三分の一は、トルコの三大都市に住んでいる。
イスタンブール、アンカラ、イズミール。

イスタンブールの人口は1800万人で、トルコの中で一番物価が高い街。
月給はだいたい17万円~25万円くらいだが、カッパドキアなら6~8万円くらい。
それほど違う。

例えば、日曜日の夜にみなさんとディナークルーズをやるが、その時、海峡の方には600件くらいの素晴らしい家が見えてくる。そういう家は、日本円で30億とか40億とかする豪華なもの。
場所によってかなりの差がある。

トルコの首都のアンカラの人口は420万人、イズミールは330万人。
基本的に西の方に人が多く、東の方は少ない。


トルコは、エーゲ海、黒海、地中海の3つの海に囲まれ、湾のようなマルマラ海がある。
マルマラ海はボスポラス海峡(33km)とチャナッカレ海峡(62km)に挟まれている。

黒海はなぜ「黒い海」と言われているか。
12~13世紀に、トルコ人は方向を言う時に色で言っていた。
  • 黒=北
  • 白=南
  • 西=青
  • 東=赤

そして黒海と地中海の名前は、方向で表す言葉で呼ばれていた。
  • 黒海=カラデニス:カラは黒、デニスは海で「北の海」
  • 地中海=アクデニス:アクは白で「南の海」

トルコの北にはギリシャとブルガリアがあるが、今日これから行くホテルよりギリシャの方が近い。
今からバスで向かったらお昼の14時くらいには着く。

南にはシリアがありその境には、一番長い893キロの国境が続いている。
そして、イラク、イラン、アルメニア、グルジアも隣接している。

そのような地理関係のため、日本の周りは海だけど、トルコの周りは戦争。
そのため、トルコは世界三大軍隊のひとつを持っている。
51年にNATOにも加盟していてとても強い。
軍隊のことについてはアメリカ、トルコ、イスラエルと一緒にやっている。

トルコは国が徴兵制をとっていて、男性は34歳までに一度、1年半の兵役に行かなければならない。
もし行かなかったら国籍を無くす。
兵役に行くまで、パスポートは半年ごとに更新していく。一か月の兵役が終わると10年ごとになる。

訓練は大変厳しく、それについては世界一だと思う。
練習するときは本物の武器を使ってやっている。


今のトルコはすべてアタテュルク(ムスタファ・ケマル・パシャ)がつくったと言える。(パシャは偉い軍人という意味)
アタテュルクはトルコの初代大統領の愛称で「トルコ建国の父」という意味。
アタは父、テュルクはトルコ人。
日本ではトルコと言うが、トルコでは「テュルク」と言う。

1938年11月10日9時5分に、イスタンブールのドルマバフチェ宮殿で肝硬変のために57歳で亡くなった。
トルコの人にとって、預言者マホメットより彼の方が大事で尊敬されているため、これからいくどの町にも彼の銅像などがある。

トルコ人は愛国心がとても強く、学校ではこのように教わる。
国は一番、家族は二番、仕事は三番。


マルマラ海の南側にブルサという町がある。
1299年(日本では鎌倉時代)、オスマントルコ帝国がこのブルサで始まり最初の首都になった。
オスマントルコの前はサルジュークトルコで、首都はコンヤ。初めてトルコに来たトルコ人がそこを首都にした。
ブルサのあと、オスマントルコはヨーロッパに入り、エディルネという町を次の首都にした。
その後、15世紀にブルサの征服者メフメト2世はビザンチンに入り、イスタンブールがオスマントルコになる。
さらにそのあと、アタテゥルクが首都をイスタンブールからアンカラにした。

オスマントルコ時代にはスルタンが37代目までいた。
そのうちの21人が、昨日行ったトプカプ宮殿で生活していた。
それほど長く繁栄していたトルコだが、19世紀のオスマントルコ時代末期は国の崩壊だった。
そのころのオスマントルコは大変弱く、最後の王様は、自分とイスタンブールと宮殿のことだけ考えていた。
イギリスやフランスなどに対して「どうかイスタンブールだけは触らないでください。他はとってもいいから」と言っていた。

しかし、それに反対した人物が一人だけいた。それがアタテゥルク。
そのとき彼は軍人で、チャナッカレ海峡で王制を倒すことを決めた。
それに対し、イスタンブールで隠れていた最後のスルタン(ワディティーン)は、彼を見つけ死刑にしろという命令を周りに出していた。

そんな中、アタテュルクはスルタンに内緒で、周りの軍人と一緒にイスタンブールからサムスンという町に行き、そこにいた国民と会って相談した。その後さらに東に行きトルコの人たちたちと相談しながら、みんなで一緒にチャナッカレ海峡に向かった。
そのときアンザック軍(イギリス、フランス、ギリシャ、イタリア、オーストラリア)がトルコに入ってきていた。

そしてついに、1915年3月18日、アタテュルクたちはチャナッカレ海峡で戦争に入る。
この戦いで93万人が亡くなったがトルコが勝った。
アタテュルクは国民の30m前の位置で戦って英雄になった。
この戦争により「アタテュルク」の他に「チャナッカレ海峡のライオン」という愛称もついた。

戦争でトルコが勝つと、すぐにスルタンはイスタンブールから逃げ出してフランスのパリに行った。
一方アタテュルクはイスタンブールに行き、1923年10月29日、近代的な新しいトルコをつくり、次の日にはスルタン制度を廃止した。

その後、1928年11月、昔のアラビア文字を現在のトルコ文字に変えた。
一部の人からは反対があり、新聞とかはとりあえずアラビア文字を残そうと提案したが、彼はすべて明日から変えてくださいと言った。
さらに女性に選挙権を与えたが、それは日本より12年も早い。
一夫多妻制(オスマントルコ時代は4人まで奥さんが持てた)も廃止し、一夫一婦制を導入。
それから死ぬまでの15年間、トルコの初代大統領を務めた。

最近までスルタンの子孫はトルコに入れなかった。
今でもイギリスやフランスに暮らしている子孫がいるが、そういう国でトルコ人に会うと顔向けできない立場でいる。

もしアタテュルクがいなかったら、今のトルコはイランやイラクのような国になっていただろう。
トルコは政治と宗教を別にした。トルコ以外のイスラムの国は宗教の上に政治がのっかている。


トルコ人の故郷は中央アジアで、もともとはモンゴル系で日本人と一緒。
昔、モンゴルから一人は西へ一人は東へ向かったという話がある。

しかし今に至るまでにいろいろな血が混ざったから、例えばここに10人のトルコ人を呼んだらみんな違う顔をしている。
黒海の西海岸の方は、ゲルマン系とスラブ系が入っていて多くの人が金髪に碧眼、エーゲ海の方に行くとギリシャ系が入っていて、東の方にいくとアジア系。場所によってぜんぜん違う。


これから渡るチャナッカレ海峡の玄関口には、戦争のあとに建てられたモニュメントがあり、それにはアタテュルクが言った言葉が書いてある。

内に平和、外に平和
戦争は必要なときだけ

現在のトルコはこのチャナッカレで生まれた。
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なるほど。
確かに地図を良く見ると、トルコのまわりはかなりキャラの濃い国々が連なっていますね。
周りが海に囲まれている日本でさえ、近隣諸国のちょっかいが問題になるのだから、陸続きともなればそれは相当なものなのでしょう。

イスラム圏の国には他にも行きましたが、トルコはその中でも規律がかなりゆるい印象を受けました。
きっとそれは、アタテュルクがスルタン制を廃止し、近代的なトルコに向けて改革を始めたときから急速に変わっていったのではないかと勝手に想像しています。
イスラム教を信仰していると言っても、国や地域によってかなり差があることを実感しました。
そういう意味で、気楽な感じでイスラム圏を観光したい人にはうってつけの場所かもしれません。


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